それは、どこからどう見ても、ぼろアパートだった。
 場所は都市区を少し離れたところにある路地。
 腐敗しかけた痛々しい錆鉄の柱に支えられて、トタン板の屋根からは雨漏りがしてそうな―――そんな感じの、アパート。
 その立地条件は、悪くないといえる。
 近くに商店街、駅も電車の音がうるさくない程度の距離にあったし、植込の緑も良い雰囲気でアパートを囲っている。
 ただし、それまで自分が居を構えていた都市区に比べると、ショッピングビルやモノレールステーションといった近代的なものは存在しない。
 大分不便さを感じるが、仕方ないだろう。

 ―――ぼろアパート、《エンゼル・ハイツ》、二〇四号室。

 とても見た目、そんなふうに呼べやしないだろう新しい自分の部屋の玄関の前で、彼は短く嘆息した。
 背後、腰辺りまでの高さしかない柵の向こうから、サンサンと太陽の光が優しく降り注いでいる。
 まったく穏やかな午後だ。
 少年……オレンジがかった茶髪の毛と、白いブラウス。少し市販のモノとは違うデザインで、ただのブラウスではない。その下に履いているのは深いグレイのズボン。
 名は、梨世。小林梨世(こばやしりせ)。
 音の響きから、よく性別を間違えられるのだが、彼は生まれたときかられっきとした日本男児であった。
 年齢は十八になったというのに、まだあどけない面立ちだ。
 もとから童顔なのはコンプレックスだったが、こればっかりはどうしようもない。
 表情はどこかひねくれたような目つきに、きゅっと結んだ唇……。

(人が悪いよなぁ、部長も)

 心の中で悪態をつき、彼は狭い廊下に積んである自分の荷物―――ダンボールの箱が数箱、中には衣服類が詰め込んである―――のひとつを持ち上げた。
 重くはないが、嵩高いので結構苦労する。
(重要任務のためアパートメント生活だ? 経費削減で支給品なし? なんか左遷された気分だぞ、こっちは)
 リセは顔を歪めたまま、つい先日の出来事を思い出していた。






「リセ、君に……とっても耳寄りな仕事がある」
 オフィスビルの最上階、白で統一されたインテリアの並ぶ一室で、その男は突然リセにそう切り出した。
「耳寄り?」
「ああ。耳寄りだ」
 繰り返す男。
 中年とは言い難いが、もう若すぎはしない三十歳前後の風貌をしている。
 肩下までの長髪は黒々とし、サングラス越しに覗く切れ目の双眸は、鋭いブルーだった。
 パリッと着こなすスーツは白。ネクタイは黒。
 上から下まで、瞳さえ除けば限りなくモノクロな男である。
 その背中からは、これまた真っ白の、かなり立派な翼が生えていた。
 天使の血が流れている証拠である。
「我が《ヘヴンズ・Fブロック支部》にとある司令が昨日届いてな」
 両手の指を組んでデスクに肘をつく彼は、それを口元に当てながらまっすぐリセを見つめていた。
 丁度、『地球上における天使と悪魔の生存率論』というタイトルの本から、感想文を提出するための引用文を探していたリセは、その男の視線にちらりとだけ振り向く。
「……司令?」
 怪訝な顔つきで続ける。
「クァンヴァント部長、まさかそれを俺にやれって言うんですか」
「君以外にできる者がこの部署にいると思うのか?」
「いえ、いない事はわかってます。この部署には」
 リセはがらんとした室内を見渡した。
 白いインテリア、と称したが、本当にこの部屋の壁やらデスクやら、プランターまで白一色でまとめられている。
 そこには彼自身と、彼の上司であるクァンヴァント・ラーデFブロック支部長しかいない。
 二人は唯一、白以外の存在である。  
 尤もクァンヴァントの格好は、下手をすれば色白も手伝って背景に溶け込みそうだったが。
 それを考えればプランターの中にある造花の緑のほうが、いくらか存在感が強い。
 そんなことはさて置いて、今……というか四六時中、この部屋にはこの二人以外に、心の臓を持った生き物は皆無であった。
「そうだ。この《ヘヴンズFブロック支部》に、エージェントはお前しかいない」
「繰り返さなくてもわかっています」
 リセはぱたん、と『地球上における天使と悪魔の生存率論』を閉じた。


 ヘヴンズ―――都市区の中心、現代社会の行政を扱うような建物が立ち並ぶオフィス街に本社をもつ、天使血縁者の結社である。正式名称は「HEAVEN'S ASSOCIATION(ヘヴンズ・アソシエイション)」。
 区域や地域はそれぞれA〜Zまでのブロックに管轄が分けられているが、リセはそのFブロック―――主に都市区の中心部―――に所属している。
 社員はエージェント、ガーディアンなどと呼ばれ、それぞれに役割が課せられる。

 
 次に、天使とは―――。
 『審判の日』に、人間界に降りてきた種族で、白い大きな翼と、人間にはないアビリティと呼ばれている潜在能力が特徴だ。
 外見はほとんど人間と変わりない。悪魔もまた同じような存在である。ただこちらは翼の形が酷く単調なギザギザで、基調とする色は漆黒だ。
 天使と悪魔は、別にお互いが険悪でもなんでもない。単に種族的な違いがあるだけで、善も悪もあったもんじゃない。天使だって強盗を犯すし、悪魔だって布教活動をする。ただ人間に、白か黒か、どちらかの翼が生えている―――くらいの感覚だ。
 
 では、ヘヴンズとは一体どういう結社なのか、というと―――。

「Fブロックは、比較的天使や悪魔による犯罪が多い地域ですから、エージェント達やガーディアン達は出回ってて、部署には手が空いてる者がいない―――ってのは建前で、本当はただ単に人員不足なんでしょう」
「流石にその歳で、伊達にヘヴンズエージェントをやっていないな、リセ。全くその通りだ」
「ま、述べた事で事実なのは……人間以外の犯罪が比較的多いってくらいですね」
「―――と、いうわけなのだ」
「何が―――と、いうわけなのか、……はこの際黙ってるとして……『耳寄りな仕事』の内容を聞いてもいいですか? とか言う前にもう既に聞かされそうな状態ですけど」
 クァンヴァントはいつのまにやら、リセの手元にあった『地球上における天使と悪魔の生存率論』をその分厚い手の皮で包み込んでいた。
 リセと彼の座っているデスクの距離は、二メートル程離れているにも関わらず、全く動きもせず……である。
 『引き付け(アトラクト)』と呼ばれる一種のアビリティだ。それも、初歩の。
 対象を自分の方に、まるで磁石を使うような形で引き寄せてしまえる。クァンヴァントの得意技であった。
 それまで本のハードカバーをいじりながら、話半分に聞いていたリセの意識を集中させたかったのだろう。引き寄せた本を自分のデスクにぽん、と置くと、クァンヴァントはまた肘をついて、さっきと同じ格好をしながら静かに話し始めた。
「ヘヴンズ本部に、一般人からの情報が入ったらしい。以前から本部が予想していた、天使と悪魔の血が、四分の一ずつ流れている混血児の存在が明確になったそうだ」
「はい?」
 リセは、クァンヴァントの言葉に首をかしげた。
 言っている単語の意味がいまひとつ理解できない。
「天使と悪魔の血が四分の一ずつ流れている混血児?」
 二分の一ずつ、なら聞いた事はある。そういう種族も存在しているし。
 要は天使と悪魔の混血児、というわけだ。
「早い話が……天使と人間の混血児と、悪魔と人間の混血児との子供だ」
「ああ、成る程。5割は人間の血が流れてるってコトですか」
「今まではなかった例だがな。一応『審判の日』以来恐れられていた事態なのだ」
「恐れる? 何故ですか?」
 天使と悪魔の混血児さえ蔓延っているこの世界なのだ。
 どういう風に恐れるのか、それもよくわからない。
「『審判の日』が訪れたときから、―――つまり、人間と天使と悪魔の共存が始まってから……人間が取り締まれない問題を解決してきたのは、うちのヘヴンズと、悪魔族結社のヘルズでしょう。それが恐れるってのは?」
「混血児―――ああ、我々はとりあえず、オミと呼んでいるんだが―――それはまだ未知の存在なのだ」
「はあ」
「繰り返すようだが、それまで全くなかったタイプだ。アビリティの威力も、種類も、とにかく何も分かっていない。本部は危険を察知して、オミを重要人物に指定した。で、そのオミという人物をヘヴンズで保護しようというのが今回の目的だ」
「……どうせまた建前なんですね」
「そうだな……保護というより捕獲、だ」
「ヘルズは何か言ってます? オミという人物には悪魔の血も入ってますよね。自分達の管轄だとか言って、文句がでないわけじゃないと思いますけど」
「今のところ、この件に関してヘルズからの意見書は提出されていない」
「ヘヴンズが先んじたってわけですか」
「間違えるな、先んじるのだ。これからな」
 クァンヴァントは、そこでようやく行動に出た。
 デスクの引き出しを開けて、切れ味のよさそうな一枚の用紙を取り出す。
 リセが近付いてよく見てみると、一番上に直筆で「命令書」と書いてあった。達筆だ。
 本来、ヘヴンズ結社に「命令書」は存在しない。リセはなんとなくだが、これはクァンヴァントが勝手に作った物なんだと思っていた(実際、その様なのだが)。
「コバヤシ・リセ=エージェント。君にオミの捕獲を命じる」
「ちょ、ちょっと待ってください! 話は聞きましたけど本当にそれ、俺がやるんですか?」
「だから、君でなければ誰がやるんだ?」
「いつも通り、天使族や悪魔族による凶悪犯罪を阻止してこいとか、……そういう仕事なら何も言わずに引き受けます。それがヘヴンズのエージェントとして適切な仕事だし。……けど、あきらかに今『下っ端』な俺に重要指定人物を捕獲しろってのはどういう事ですか? 考えが無さ過ぎます」
「本部からの司令だといったはずだが」
「じゃあ本部は一体何を……?」
「……寒くはないか? リセ」
「はぁ?」
「エアコン……去年から壊れているな?」
「ええ。直したいって前から……」
「金さえあればなんとかなるんだが」
「……まさか……支部経費削減されたんですか?」
「理由はわからん。が、とにかく今回の仕事は内容の規模が極端に大きいからな。成功すればこのFブロック支部、いくら私と君しか配属されていないからといっても……本部に認められるだろう」
「……司令されたんじゃなかったんですか?」
「たとえ私がこの司令をAブロック支部から強奪してきたからといって……司令には変わりない」
「…………つくづくあなたには閉口します、クァンヴァント部長」
 リセは半眼になって、命令書を受け取った。
「もちろん、オミの居場所は大体見当ついてるんでしょうね?」
「Aブロック近辺の一般人から、多数情報が寄せられている。おそらくその周辺が妥当だろう。君の新しい居宅も用意しておいた。ちなみに本件においての調査費諸々は成功報酬となっているのでそれまでは自活するように」
「なっ……?」
 ブラウンの双眸を見開き、リセは思わずクァンヴァントのデスクに身を乗り出していた。
「耐えろリセ。エアコンのためだ」
「いや、エアコンはどーでもいーです」
「何を言う、エアコンを直すのが、今の我々の最大の目的だという事を忘れたのか?」
「それが最大の目的とかいう以前の問題だと思うのは俺だけですか、部長?」
「…………わかった、今の発言はなかたことにしよう。とにかくそういう事なんだ。経費削減によって任務にすら金をかけることができん」
 クァンヴァントから視線を外し、はぁ、と項垂れるリセ。
「……ところで、オミっていう呼び名は一体なんなんです?」
「そう呼ばれているらしい。ただ、名字なのか名前なのか……本名かどうかすら怪しいのだかな」
「ってことはもちろん性別なんかは……」
「わかっていない。一般人の情報など割とあやふやなのだ。ただ、年齢は二十歳前後だそうだが」
 クァンヴァントは『地球上における天使と悪魔の生存率論』のページをいじりだしていた。
 ちらちらと中身を覗き込みながら、もうすでに意識はそちらに集中しているらしい。
(こりゃ……並大抵の仕事じゃねーな……)
 リセは一瞬だけ宙を仰ぐ。
 それから、パラパラページをめくり始めた上司から本を奪い返し、あきらめたように言った。
「とりあえず、この本は返してくださいね」






(……ああ、なんでひき受けたんだ俺……)

 ―――と、後悔しながらそんなくだりを思い出していたリセは、突然、ドスドスドサァァァ!という物音でハッと我に返った。
 とりあえず自分が抱えていたダンボール一箱を通路に降ろして、何事かと、周囲を見渡す。
 《エンゼル・ハイツ》二〇四号室は、二階建てのぼろアパートの二階、急で狭苦しい階段のすぐ目の前に位置している。
 そのそばに積んでいた他の荷物のダンボール箱が崩れ落ちたらしかった。
 もう一度積み上げようとしたリセの視界に、ふと小豆色のサラサラした頭髪がよぎる。
「あたたた……」
 頭髪―――声を発したことにより、とりあえずヒトだということはわかった―――がかぶりを振っている。
 その度に、絹のように輝く長い髪の毛が、幾度かヒビの入ったコンクリートの床を撫でた。
「ごめんねー、私声かけよーとしたんだけど、足躓けちゃって」
 女。というより少女か。大体、顔の面影からしてリセと同じ位の世代の。
 彼女はえへへ、と笑って見せていたが、体が半分ダンボールに埋まっていた。
「……大丈夫か?」
 状況からみて、この女がダンボール箱をひっくり返してしまったらしい。考え事をしていたリセは、彼女が近づいた事すら気付いてはいなかったのだが、まぁ、そんな事は今更どうだっていい。
「へーきへーき。あ、ねぇ、あなた小林サンよね? 今日越してきた。……違う?」
「そうだけど……」
「あ、ホント? 良かったー! あ、あのね、大家さん今ちょっと留守でね……私、いろいろあなたのこと頼まれてんだけど……」
 体をねじらせて、ダンボール箱から這い出ながら彼女。
 リセはあちらこちらに散らかってしまったそのダンボール箱を拾っては、さっきとは反対側に積んでいく。
「これって荷物だよね。ホントごめんね。あ、手伝うね!」
「……あんたは?」
 リセは、やっと全身が外の空気にさらされたその女を見据えて尋ねた。
 白のブラウス、グレイのズボン……とシンプルな格好のリセに対して、彼女は柄入りニットにチェックのミニスカート、とどこか華やかな風貌である。小豆色という珍しい髪の色があったからかももしれないが。
 しかしどこからどうみても、普通の女、(いや、やはり少女か?)という外見だった。
「あ。キサラっていうの。えーとね、お隣」
 人指し指を、自分の肩を通り越して背後に向ける。
「二〇三号室。よろしくね」
「こちらこそよろしく」
 半分社交辞令で、リセは笑顔を作ってあいさつをしておいた。
 普段あまり人と関わりをもとうなどとは思わないのだが、お隣なのでそれなりの配慮はしておいたほうがいいのだろう。後々、面倒なことにもしたくはない。
「あ、いいよ。これ俺が片付けるから」
 ダンボール箱を整理し始めた彼女……キサラに、リセは続けた。
「どのみち部屋にはいったら自分でやんなきゃなんねーし」
「え、そぉ?」
 きょとん。
 そんな可愛らしい擬音で、キサラは首をかしげている。
 暫くそのまま何か考えていたらしいが、やがて「そっか」というとポケットを探り出した。
「これ」
「?」
「こっちのパンダのキーホルダーついてるのがポストの鍵ね。近頃盗難が増えてるらしいから気をつけて。あ、それからこっちのいちごみるくキャンディは……私からのお近づきの印★」
「……ああ……アリガトウ」
 頬に一筋汗を流しながら、傍から見れば中学生の喜びそうなファンシーパンダのキーホルダーとピンクのまるい包み紙を掌に収め、リセは頷く。
「それじゃあねっ、用があったらよんで頂戴ね! すぐ隣だから」
 キサラはくるりとスカートのフリンジを翻して、颯爽と二〇三号室へ消えていった。
(……かわったヤツ)
 いや、普通の女子高生くらいってのはあんなものだろうか……。
 自問しながら、リセは二〇四号室の古いドアをギギ……と開いた。


 ダンボール箱の量を考えると、四畳半一間台所+ベランダ付き、というのは少し狭い。
 今まで少々羽振りのよいマンションで暮らしていただけあって、がらりと変わった環境というのは慣れるまで時間がかかるものである。
 あらかたの荷物を整理して、リセは通販で買った自前の折りたたみデスクにノートパソコンを置いた。
 ノートパソコンの方は、ヘヴンズの支給品である。こればっかりは、いくらなんでも自分では用意できない。市販のパソコンとは機能が異なりすぎているためである。
 外装はミルキーホワイト。シンプルだが、右下にはヘヴンズのロゴマーク(天使の羽を象った、アルファベットのH)が刻まれている。
「あ、部長。リセです」
 早速モニタの向こうに呼びかけた。
 液晶画面に見慣れた三十歳代の男を確認すると、リセは表情がちゃっかりエージェントのそれになっている。
「今現場につきました。これから暫くの間、例の人物を探します」
『うむ、ごくろう』
 すこしデジタルで、機械を通した声が伝わってくる。クァンヴァントは相変わらず、肘をついて両手の指を絡め、その上に自分の顎を乗せた状態でモニタに映っていた。
「それと定期報告ですが……どうしますか?」
『そうだな、一週間に一度でいいだろう。但し急を要する場合はいつでも構わない。早急に対処してくれ』
「わかりました。では」
 事務的な会話を済ませて通信を切る。
 さて、これからどうしたものだろうか、とリセは伸びをした。
「とりあえず情報集めと……あと昼飯、かな」
「それなら美味しいラーメン屋さん、知ってるわよ!」
「……ラーメンかぁ。悪くないよな……ってっ?」
 バッ!
 リセは反射的に後ろを振り返っていた。
 さっき普段着を根こそぎしまいこんだ小さな押入れの下の段から、小豆色の髪の毛の女が顔をひょっこり出している。
 這いつくばって、まるで空き地の土管を抜けてきた、というような格好であった。
 さっき別れたばかりのキサラである。
「なっ……なんで押入れにお前っ……!」
「やー、さっきい言い忘れてた事があってぇ」
「ちょっと待てそういう事じゃないだろ、そういうことじゃ!」
 にこにこ微笑む彼女に、こちらも四つん這いで近づいて……リセは腕を組んだ。
「いつのまに入りこんだっ? 全く気付かなかったぞっ?」
「えーと……別に入りこんだワケじゃないんだけどな。あ、ねーそれより小林サンてリセって名前なの?カッコイイね、リセってよんでもいーい?」
 きゃっきゃらと笑っているキサラ。
「俺の質問に先に答えろっ」
 腕組を解き、堪りかねてリセが問い質す。
 勢いで、うつ伏せのまま器用に肩をすくめているキサラの顔面寸前まで身を乗り出していた。
「その一、どーしてここにいるんだ? そのニ、どーやって入ったんだ? その三、いつから見てた? おまけっ、なんの目的があるっ?」
「やだ、怖い顔しないでよー……だからー、えーと……わかった、順番に答えますってば」
 実際には怖い顔、というよりも、脂汗のようなものを流しているためにものすごい形相(しかもそれがキサラの眼前にある)のリセに驚いたのか、彼女はちょっと退いて口篭もった。
「ええーっとぉ、その一、言い忘れた事があって伝えに来たのよ。そのニ、入ったんじゃなくて抜けてきただけだもん、押し入れ。その三、さっきあなたがそのノートパソコン開いた時くらいから見てたんだけど。おまけっ、別に目的っていうほどの目的なんてないんだけどな」
「……抜けてきた? 押入れを?」
「うん。ほら」
 と、言いながら、キサラは何故かリセの部屋に上がりこみ、それまで自分が居た押入れを指差す。
 なんと、その奥の壁に四角形の穴が開いていた。あまり大きなモノではないが、細身の女性か、小学生以下の子供なら通りぬけられそうである。
「な、なんだこれ?」
「私が何年か前に引っ越してきた時からあるんだよ。私の部屋と繋がってるの。ねーねーだからそれよりねっ、リセって―――あ、もう呼んじゃうからね、決まりねっ―――で、リセってヘヴンズの人だったんだねぇ。なーんで言ってくれなかったのよぅ、もぉっ。確か天使の血族の人じゃないとお勤めできないんでしょっ? ってことはリセって天使関係の人? ここに来たのも仕事なのっ? あ、そうだ、ラーメン食べにいく? 引越しそばの代わりだけどいーよねっ」
「……ちょっと」
 いきなり捲し上げる目の前のお気楽娘―――少なくとも彼にはそう思えた―――に、リセはストップ、という意味で右手を差し出す。
「なんなんだよ一体? 抜け穴があるのはわかったよ。それでアンタがここに居た事も理解できたけど……」
「うんっ。それで?」
「アンタ……キサラって言ったっけ。何か言い忘れた事があったんじゃなかったのか?」
「……あ、そうそう」
 手鼓をポン、とうつと、彼女は人差し指を天井に向けてすらすらと、まるで教科書の全文を暗唱したかの様に話し始めた。
「トイレは男女共同、お風呂は近くに銭湯があるからそこを利用すべし。尚一風呂大人四百円、子供半額、この場合子供は小学生以下対象。ゴミの日は毎週月曜と木曜。ちなみに木曜は月の最後の週のみ粗大ゴミを扱っている。新聞古雑誌は定期的にトラック集荷が来るのでできるだけそっちに出すように。たけや〜さおだけ〜のメロディに騙されちゃダメよん」
「……アパートのルールか……最後のは何?」
「よく竿竹屋サンのトラックを、古雑誌の回収と間違える人がいるらしいよ」
「…………」
「それよりっ、ねー教えてっ。リセってヘヴンズの人なんでしょ? エージェント? ガーディアン? って聞いたところで実は私あんまりよく知らないんだけどぉ……あ、やっぱり羽とか背中にしまってあるのっ?」
 キサラはまたにこにこ顔に戻っていた。
 はぁ、と嘆息してから、掌を額に当てて項垂れる。
 いるいる。新入りに根掘り葉掘り質問して、内情知りたがる隣人諸々。何がそんなにおもしろいのか……真意は計り知れないがこっちは迷惑千万である。そして彼ら(彼女ら)はそれに全く気付かない……というかわざとそんな振りをしているだけなのか……言い聞かせて聞くような輩共ではないのがほとんどだ。
 このキサラという女もそのクチか。……そんな気のするリセである。
「……そーさ。俺はヘヴンズFブロック支部のエージェントのコバヤシ・リセ。ちょっと人探しの任務に今日就いたところ。ちなみにそっちの期待通り、一応天使の血ひいてるよ。人間と天使の混血児だかんな」
「きゃーっ、やっぱりやっぱりっ!」
「何がそんなに嬉しいんだ……?」
「えへ。私ってあんまり天使の血をひいてる人間って見た事ないんだよねぇ。天使の血をひいてるってだけなら知り合いもいるんだけど、ヘヴンズに務めてるってのはなかなか聞かないし……私ヘヴンズにスッゴク興味あるのっ。でねー、新しい人が隣に引っ越してくるっていうんで、ちょーっと期待しちゃったりしてて……その服見た時からもしや、って思ってたんだけど、やっぱそうだったってのが嬉しくって」
 めちゃくちゃな文法で話すキサラだったが、リセはなんとかその意味くらいは理解できた。
 要するに自分は、歓迎されている立場にあるらしい。別に嬉しいわけではなかったが。
「それはいいけど、なんで押入れから来るんだよ」
「コミュニケーション取るには最適じゃない?」
「どーいう考えだっ、それはっ!」
「どーいうって……玄関からチャイムを鳴らして入るのって、ちょっと味気がなさ過ぎるでしょ? 印象も薄いだろうし」
「それが普通ってもんなんだっ」
 どうやらこのお気楽娘は、ただお気楽なだけではないらしい。セットで極楽と、バカという文字が付いてきそうだ。お気楽極楽バカ娘。
 我ながら核心づいている、たぶん。……と、リセは一人で納得することにした。
「普通じゃつまんないじゃないっ。気に入ってるんだから、この押入れの穴。私くらいのオンナノコしか通れないし、だから今まで直さないでいたんだもん」
「直せ。今すぐ」
「考えとくね」
「直せぇぇぇぇっ」
「もー、そんなに叫んだら血管きれるよ?」
「そしたら治療費と慰謝料を請求するから覚悟するんだな」
「え、ヘヴンズが出してくれるんじゃないの? 労災費だよね、それって」
「…………」
 無言でそっぽを向く。
 不景気の三文字が、リセの両肩にのしかかった。
「エアコンも直せない支部が、ヒト一人を救えるだろうか……」
「……なんか切羽つまってるみたいねぇ……」
 うっすらと涙を浮かべ、零すまいと天を仰ぐ隣人に、キサラはあまりよくわからなかったがとりあえずそんな言葉を投げかけた。
 そして―――。
「……もしかして、困ってる? 仕事、手伝ってあげようか?」
 そんな台詞がふと聞こえたような気がしたが、リセはなんとなく現実逃避したまま聞かなかったことにしたかった。
 まぁ、無駄になってしまう気はしたのだが。